お盆に考える話

夫はおそらく迎え盆でお墓と実家へ。2階からドスドス足音が聞こえてこない、子どもと二人の家って幸せです。今日は何やら迎え盆でお墓にご先祖様を迎えに行って家にいてもらい、今年は姑の新盆のためお坊さんにお経をあげてもらい、送り盆でお墓に帰ってもらうんですって。仮に霊が存在するとしてもさ、いつまでいるの?成仏できてないやん。お通夜もお葬式もお経も位牌もお墓も無意味やんて私は思うのです。夫はそれらをキチンとしたいタイプで私はそういう事をくだらないと思う人間です。先祖の供養をして感謝すれば子孫が繁栄するなら、なぜこの家が絶えかけているのかを問いたい。彼の言う通りなら私は子どもが3人いて墓守になる男の子も生まれているのでは?私が幸せに暮らせているのは私が嫌なことから意識を反らして楽しいことを考えるっていう努力の結果であり絶対に姑や顔も知らない先祖のおかげじゃないのです。お坊さんと葬儀屋さんに騙されてるよ。夫も夫の姉も馬鹿じゃないはずなのに養分になりつづけるのは幼いころからの刷り込みのせいなのかしら。そして私にその刷り込みがないのは、やはり育ちの問題なのかな。葬儀だ法事だお墓買うぞって、そういう何かがあると苦労して必死にお金を工面していた母親を見ていたせいか、お寺やお坊さんや葬儀屋さんは人の死をネタにいつまでもお金を吸い取り続ける悪いものに見えるのです。「供養をしてあげないと故人がうかばれない」「先祖の供養をおろそかにするとバチがあたる」そんな風に罪悪感や恐怖心に付け込んでお金を儲ける行為って「この壺を買わないと不幸になる」「お布施をしないと不幸になる」って脅してくる怪しい新興宗教と何が違うのでしょう。「常識」「普通」「当たり前」という同調圧力で時間とお金を奪う行為はしつこい勧誘と何が違うのでしょうか。

でもカモになれるのって夫達世代までなんでしょうね。私たち世代になると氷河期世代だから、私みたいな人間でなくても払えるお金がない人がたくさんいそうです。そうしたら葬儀屋さんもお寺もお墓も廃れていくんでしょうね。受け継ぐ人がいないお墓はどうなるんでしょうね。うちの実家のお墓も夫の実家のお墓も近い将来誰もいなくなるけど。下手に首を突っ込んだら厄介なことに巻き込まれそうなので気づかないふりをしておこう・・・。

夫達にとっては大切なお母さんのことだからって気持ちがあっての事なんでしょうね。でも私にとっては気に入らない姑なのです。死んでなおイラつかせるのかって気持ちが強いです。私は健康に長生きしないといけませんな。万が一夫より先に死んであのお墓に入れられたら絶対に嫌です。夫の骨はお墓に入ってほしいですけどね。私は大切なウサギの遺骨と、そのころには亡くなってるかもしれないヤモの骨と一緒に海に撒いてほしいなぁ。死んでからも何年も生きている人間の手を煩わせる死に方は嫌なのです。死んだらすぐに火葬して、骨は散骨してもらったら仏壇も供養もいりません。子どもにだってたまに「ママは○○だったな」って思い出してもらえるくらいでちょうどいいのです。私の願いは子どもが幸せに楽しく暮らしてくれることです。供養のために時間とお金を使わないと不幸にするって仮にいたとしても、それは先祖じゃなくないかなぁ?と思うのですよ。

なんでこんなことを考えているかというと、16日にせっかく仕事が休みなのに送り盆だから一緒に来いと言われたからです。せっかくの休日が潰れるのが残念です。子どもの歯医者の後「バービー」見にいこうと思ってたのに。それもあってさらにガッカリです。まぁ憂鬱なのは16日のみです。その日以外を嫌な気持ちで過ごすのは時間がもったいないので考えるのはここまでにします。せっかくだから、今日は楽しく過ごします。

多少の嫌なことがあったってヤモが生きていてくれたら幸せです。

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